2009.01.09
悲運の独立都市
朝、真幸さん手作りの朝食を戴きながら周辺の情報を聞くと、真幸さんは親切に色々と教えてくれた。そうしている内に、あることに気がついた。宿の庭に、ひっきりなしに鳥がやってくるのだ。聞けば、この時期は庭の木になる実を食べるため、さまざまな野鳥が訪れるのだという。庭に出てみると、なんとリスまでいるではないか。さすがは熱帯雨林帯。
朝食を終え、早速キリグアの遺跡に行きたいところだが、財布の中身が心もとなくなってきたので、先に近隣のロス・アマナスという町に行く。トラベラーズチェックを両替するためだ。事前に真幸さんにすいている銀行を教えてもらったため、それほど待たずに両替することができた。他の銀行も覗いてみたが、言われたとおり確かに皆込んでいた。
両替を終えた僕は、バスを拾ってキリグア遺跡へと向かった。途中の分岐点でミニバスに乗り換え、遺跡入口へと辿り着く。遺跡の入場料はなんと80ケツァル。高い! 広大な敷地に無数の神殿が建ち並ぶティカルであれば、150ケツァルの入場料も納得できるが、このキリグア遺跡の規模はとても小さく、かつてのキリグア人には申し訳ないのだが、神殿もなんというか、とてもショボイのだ。
これは、キリグアという都市国家の歴史が大きく関係している。キリグアはもともと、ホンジュラス国境近くに位置する大国・コパンの植民都市として3世紀頃に成立した。長らくコパン王朝の支配下に置かれていた彼らだったが、8世紀にコパンに対して独立戦争を挑み、これに勝利して見事独立を果たす。
だが、彼らは独立するのが遅すぎた。8世紀末から9世紀にかけて、マヤ低地全体に原因不明の大異変が起こり、この地域の都市は皆滅んでしまったのだ。独立を果たし、さあこれから発展しようというときに襲ってきた謎の大異変。まるで十分に熟れる前に台風で落ちてしまった青い林檎のように、キリグアは発展途上のまま滅んでしまったのだ。
もっとも、神殿がショボイのとは対照的に、この遺跡に遺されたステラ(王の姿の浮彫りが施された石碑)はとても保存状態が良く、それこそがこの遺跡の最大のウリとされていた。実際に見たステラや祭壇の数々は、なるほど確かに素晴らしく、在りし日の王の威容がありありと伝わってくる。だが、それでもやっぱり80ケツァルは高いぞ。
・ホンジュラスへ
ともあれ、2時間ほどで遺跡を見終わってしまった僕は、キリグア村に戻ることにした。だが、ミニバスはなかなかこない。まあいい、いつかはくるさ。そう思ってしばらく待っていると、遺跡から出てきた車から女性が顔を出し、声をかけてきた。
女性はアメリカ人の旅行者で、これからグアテマラシティへ行くという。僕がキリグア村へ行くつもりだと言うと、よかったら乗っていかない? とのことだった。もとからそのつもりで話しかけてくれたようだ。
お言葉に甘えてキリグア村まで乗せてもらい、宿に預けておいた荷物を受け取ったあと、僕はホンジュラス国境へと向かった。バスで国境近くの町チキムラへと向かい、そこからミニバスに乗り換えてエル・フロリド国境にたどりつく。
出入国手続きは極めて簡単に済んだ。国境近くのマヤ遺跡・コパンをちょっと見たら、すぐにグアテマラに戻るつもりだったからだ。そういう旅行者が多くこの国境を通るようで、入管職員も馴れたものだった。
だが、手続きを終えていざ国境近くのコパンルイナスへと向かおうとしたところで、困った事態が生じた。入管職員によると、バスはもう無いというのだ。確かに日はもう暮れかかっていた。町までは車で20分ほどかかるという。なんてこった。僕はしばらく途方に暮れた。
仕方がない、歩くか。道の途中でタクシーでも捕まえられるだろう。そう覚悟を決めたときだった。入管職員の一人が、国境を越えてコパンルイナスへと向かうトラックに話しかけ、こっちを向いて手招きする。
何事かかと駆け寄ってみると、なんと僕を車に乗せてくれるよう、交渉してくれたようだ。入管職員というと、どうも無愛想で厳めしい人間を想像してしまうが、この人は(もちろん、僕を乗せてくれたトラックの運転手も)とても親切な人だった。
トラックの荷台で山道を眺めながら、いろいろと考えていた。「深夜特急」で有名な沢木耕太郎は、「貧乏旅行は人の親切を“食って”進む旅だ」というようなことを言っていたが、確かにその通りだ。まだ旅を初めて10日あまりだというのに、僕は多くの人の親切に助けられた。ありがたいことだ。これからも、僕はきっと多くの人の親切を受けることだろう。僕は旅をすることで、人間が持つ暖かさを確かめているのかも知れない。
真似をする人がいるといけないので書いておくが、このような人の申し出を「無条件に」受け入れてしまうのは危険なことだ。中米では「乗せて行ってやる」とか「良いホテルがある」といって人気のないところに連れ込み、金を奪うという事例が実際に多く発生している。
僕だって、誰にでもホイホイついて行っているわけではなく、その地域の治安状況やその人が信用のおけそうかを慎重に見定めている。人を信用しきれないのは悲しいことだが、この警戒心がなければ僕もいつか同じ目に遭うだろう。ジャンケンでずっと勝ち続けることができないように。
やがてトラックは町に着いた。グラシアス、グラシアス。本当に助かったよ。僕は何度も感謝の気持ちを伝えた。何かお礼をと思ったが、トラックはすぐに行ってしまった。町ではポサダ・ホンジュラスという宿に泊まる。トイレ・シャワーは共同で、その上ホットシャワーのくせにほとんど水といえるほど温かったが、ベッドの寝心地は良かった。
朝食を終え、早速キリグアの遺跡に行きたいところだが、財布の中身が心もとなくなってきたので、先に近隣のロス・アマナスという町に行く。トラベラーズチェックを両替するためだ。事前に真幸さんにすいている銀行を教えてもらったため、それほど待たずに両替することができた。他の銀行も覗いてみたが、言われたとおり確かに皆込んでいた。
両替を終えた僕は、バスを拾ってキリグア遺跡へと向かった。途中の分岐点でミニバスに乗り換え、遺跡入口へと辿り着く。遺跡の入場料はなんと80ケツァル。高い! 広大な敷地に無数の神殿が建ち並ぶティカルであれば、150ケツァルの入場料も納得できるが、このキリグア遺跡の規模はとても小さく、かつてのキリグア人には申し訳ないのだが、神殿もなんというか、とてもショボイのだ。
これは、キリグアという都市国家の歴史が大きく関係している。キリグアはもともと、ホンジュラス国境近くに位置する大国・コパンの植民都市として3世紀頃に成立した。長らくコパン王朝の支配下に置かれていた彼らだったが、8世紀にコパンに対して独立戦争を挑み、これに勝利して見事独立を果たす。
だが、彼らは独立するのが遅すぎた。8世紀末から9世紀にかけて、マヤ低地全体に原因不明の大異変が起こり、この地域の都市は皆滅んでしまったのだ。独立を果たし、さあこれから発展しようというときに襲ってきた謎の大異変。まるで十分に熟れる前に台風で落ちてしまった青い林檎のように、キリグアは発展途上のまま滅んでしまったのだ。
もっとも、神殿がショボイのとは対照的に、この遺跡に遺されたステラ(王の姿の浮彫りが施された石碑)はとても保存状態が良く、それこそがこの遺跡の最大のウリとされていた。実際に見たステラや祭壇の数々は、なるほど確かに素晴らしく、在りし日の王の威容がありありと伝わってくる。だが、それでもやっぱり80ケツァルは高いぞ。
・ホンジュラスへ
ともあれ、2時間ほどで遺跡を見終わってしまった僕は、キリグア村に戻ることにした。だが、ミニバスはなかなかこない。まあいい、いつかはくるさ。そう思ってしばらく待っていると、遺跡から出てきた車から女性が顔を出し、声をかけてきた。
女性はアメリカ人の旅行者で、これからグアテマラシティへ行くという。僕がキリグア村へ行くつもりだと言うと、よかったら乗っていかない? とのことだった。もとからそのつもりで話しかけてくれたようだ。
お言葉に甘えてキリグア村まで乗せてもらい、宿に預けておいた荷物を受け取ったあと、僕はホンジュラス国境へと向かった。バスで国境近くの町チキムラへと向かい、そこからミニバスに乗り換えてエル・フロリド国境にたどりつく。
出入国手続きは極めて簡単に済んだ。国境近くのマヤ遺跡・コパンをちょっと見たら、すぐにグアテマラに戻るつもりだったからだ。そういう旅行者が多くこの国境を通るようで、入管職員も馴れたものだった。
だが、手続きを終えていざ国境近くのコパンルイナスへと向かおうとしたところで、困った事態が生じた。入管職員によると、バスはもう無いというのだ。確かに日はもう暮れかかっていた。町までは車で20分ほどかかるという。なんてこった。僕はしばらく途方に暮れた。
仕方がない、歩くか。道の途中でタクシーでも捕まえられるだろう。そう覚悟を決めたときだった。入管職員の一人が、国境を越えてコパンルイナスへと向かうトラックに話しかけ、こっちを向いて手招きする。
何事かかと駆け寄ってみると、なんと僕を車に乗せてくれるよう、交渉してくれたようだ。入管職員というと、どうも無愛想で厳めしい人間を想像してしまうが、この人は(もちろん、僕を乗せてくれたトラックの運転手も)とても親切な人だった。
トラックの荷台で山道を眺めながら、いろいろと考えていた。「深夜特急」で有名な沢木耕太郎は、「貧乏旅行は人の親切を“食って”進む旅だ」というようなことを言っていたが、確かにその通りだ。まだ旅を初めて10日あまりだというのに、僕は多くの人の親切に助けられた。ありがたいことだ。これからも、僕はきっと多くの人の親切を受けることだろう。僕は旅をすることで、人間が持つ暖かさを確かめているのかも知れない。
真似をする人がいるといけないので書いておくが、このような人の申し出を「無条件に」受け入れてしまうのは危険なことだ。中米では「乗せて行ってやる」とか「良いホテルがある」といって人気のないところに連れ込み、金を奪うという事例が実際に多く発生している。
僕だって、誰にでもホイホイついて行っているわけではなく、その地域の治安状況やその人が信用のおけそうかを慎重に見定めている。人を信用しきれないのは悲しいことだが、この警戒心がなければ僕もいつか同じ目に遭うだろう。ジャンケンでずっと勝ち続けることができないように。
やがてトラックは町に着いた。グラシアス、グラシアス。本当に助かったよ。僕は何度も感謝の気持ちを伝えた。何かお礼をと思ったが、トラックはすぐに行ってしまった。町ではポサダ・ホンジュラスという宿に泊まる。トイレ・シャワーは共同で、その上ホットシャワーのくせにほとんど水といえるほど温かったが、ベッドの寝心地は良かった。
2009.01.09
キリグアの宿
朝、僕はキリグアへと向かうため、ポサダ・デ・タヤサルを後にした。行きがけにチャンと出会い、アンティグアでの再会を約束する。
ケツァル・トラベルの前で待っていると、すぐにミニバスがやってきた。これがバスターミナルまでのタクシー代わりらしい。そのままミニバスに乗り込み、しばらくするとバスターミナルへ到着した。チキムラ行きのバスはすでに到着しており、すぐに乗り込むことができた。ミニバスの運転手からはバスのチケットが手渡される。すべて話が通っているらしい。
バスに乗り込んでみると、なるほど安いだけの事はある。ずいぶんとおんぼろの車だった。窓にヒビが入っているのはいい方で、所々ガラスが枠から外れてグラグラしていたり、ひどいところではそもそもガラスが無いところもあった。まあ、シートの座り心地は悪くないから、問題はないだろう――この時はそう思ったが、間違いだった。
バスが出発してみると、窓から風がビュンビュンと吹き込む。中米とはいえ、まだ北半球。季節は冬だ。朝晩は肌寒く感じるほどの気温になる。しまった――僕はすぐに後悔した。カッパをリュックに入れたまま、バスのトランクに入れてしまったのだ。この時の僕の服装は、上はTシャツ一枚、下はハーフパンツ。寒くてたまらない。
とりあえず、周りの窓は全部閉めさせてもらった。乗客は他にも乗っていたが、この際そんなことにかまってはいられない。だが隙間や窓のない部分から、まだ風が吹き込んでくる。なんとかこの風から避難しようと、席を何度か替わってみたり、Tシャツの中に腕を入れたりしてみたが、ほとんど効果はなかった。とりあえずバスが次のターミナルに着くまでは、我慢するしかない。
僕は祈るような気持ちで、バスが可能な限りはやく停車することを祈った。だがバスは一向に止まらない。乗客を拾うため、一時的に停車することはあるのだが、乗客が乗るとすぐに発進してしまう。
そんなとき、ふと昨日の夜に買ったパンが目に入った。長細い袋のなかに、ハンバーガー用の丸いパンがいくつも入っている。これを使えば、多少は寒さを凌げるだろうか……僕の28年の人生の中でも、パンを「着たい」と思ったのは初めてだ。僕は早速パンを首に巻いてみた。それほどまでに寒かったのだ。だがあまり効果は感じられなかった。僕はため息をついて、パンを座席に放り投げた。
長く辛い忍耐の時間を経て、バスはようやくターミナルに到着した。僕はすぐに、何事かといぶかしがる運転手にトランクを開けてもらい、カッパを装着することができた。その様子を見ていた運転手は、「フリーオ(寒かったのか)」とつぶやいた。
ターミナルで数人の乗客が乗り降りし、バスはまた出発した。僕は漫然と車窓から風景を眺めていた。延々と続くジャングルと、それを切り開いた牧草地。たまに思い出したように、町があらわれる。バスはまるでジャングルの海を渡って町という島々を渡る舟のようだ。
その後も町々に到着するごとに、バスはターミナルで暫くの間停まり、幾人かの乗客が入れ替わる。また道端でも客がバスを待っており、その都度バスは停車する。なるほど、これでは遅いはずだ。セカンドクラスとは、要は鈍行列車だった。そうこうするうちに太陽は昇り、昼頃になった。
町々のターミナルでは、乗客が乗り降りするとともに、売り子が幾人も乗り込んできて、いろいろなものを勧めてくる。新聞、タコス、フルーツ、飲み物、アイスクリーム――それぞれの売り子が調子のよいかけ声で、乗客らに商品を売っていく。そろそろお腹がすいてきた僕は、タコスとアイスクリームを買ってみた。アイスクリームは安っぽかったが、タコスは悪くない味だ。
長いことバスに揺られた末、ようやくキリグアの村へ辿り着いた頃には午後3時になっていた。本当なら今日、早めにキリグアの遺跡を見てしまって、チキムラ(ホンジュラス国境の町)あたりで宿を取る予定だったのだが、予想以上に時間がかかってしまったため、僕はキリグアの村でホテルを探すことにした。
どこか良いところはないかと歩いていると、おばあさんが話しかけてきた。聞けば、この街には日本人がやっているホテルがあるという。ちょうどそこに、バンコクのトゥクトゥクのような三輪タクシーがやってきたので、連れて行ってもらうことにした。5ケツァール。タクシーはあまり使いたくなかったが、重い荷物を背負ってあちこち歩き回るよりはいい。
「ここだ」
ポサダ・デ・キリグア(キリグアの宿)と書かれた門の前で、僕は下ろされた。庭に入っていくと、女性が出てくる。
「日本の方ですか?」
「ええ、日本人です」
懐かしい日本語だ。泊まりたい旨を話すと、部屋は空いているという。朝食付きで130ケツァールと、貧乏バックパッカーには少し勇気の要る値段だったが、今さら他の宿を探したくはないし、ガイドブックによればこのあたりは安宿でも結構するという。何より周辺の情報を聞きたかったため、この宿に泊まることにした。どうやら今日の宿泊客は僕一人のようだ。
女性は桑田真幸さんといった。コーヒーを戴きながら色々と話を伺ってみたが、なかなか面白い女性だ。もともと日本の会社で働いていたのだが、通訳としてグァテマラに来たとき、このキリグアの村が気に入ってしまって、3年前に一人でホテルを開いたのだという。道理で建物が新しいはずだ。方々飛び回りたい僕には真似できないが、魅力的な人生だ。
高いだけあって(失礼!)、部屋の質はかなり高かった。センスの良い内装と綺麗なシャワールーム、ふかふかのベッド、新しく清潔なシーツとタオル。部屋を開ければ、綺麗な庭も見える。確かにこれだけのものがあれば、130ケツァールの値段も高くはないだろう。僕が今まで泊まった中では、一番良い宿ではないだろうか。
夕方、僕は夕食ついでにキリグアの町を散策してみた。とてものどかで、とても小さいな良い町だ。人は僕を見かけると、にこやかに挨拶してくれる。僕は都会より、こういう田舎の村の方が好きだ。村の食堂で食べた夕食も旨かった。僕は久しぶりに幸せな気分に浸りながら、寝心地の良いベッドに横になった。
ケツァル・トラベルの前で待っていると、すぐにミニバスがやってきた。これがバスターミナルまでのタクシー代わりらしい。そのままミニバスに乗り込み、しばらくするとバスターミナルへ到着した。チキムラ行きのバスはすでに到着しており、すぐに乗り込むことができた。ミニバスの運転手からはバスのチケットが手渡される。すべて話が通っているらしい。
バスに乗り込んでみると、なるほど安いだけの事はある。ずいぶんとおんぼろの車だった。窓にヒビが入っているのはいい方で、所々ガラスが枠から外れてグラグラしていたり、ひどいところではそもそもガラスが無いところもあった。まあ、シートの座り心地は悪くないから、問題はないだろう――この時はそう思ったが、間違いだった。
バスが出発してみると、窓から風がビュンビュンと吹き込む。中米とはいえ、まだ北半球。季節は冬だ。朝晩は肌寒く感じるほどの気温になる。しまった――僕はすぐに後悔した。カッパをリュックに入れたまま、バスのトランクに入れてしまったのだ。この時の僕の服装は、上はTシャツ一枚、下はハーフパンツ。寒くてたまらない。
とりあえず、周りの窓は全部閉めさせてもらった。乗客は他にも乗っていたが、この際そんなことにかまってはいられない。だが隙間や窓のない部分から、まだ風が吹き込んでくる。なんとかこの風から避難しようと、席を何度か替わってみたり、Tシャツの中に腕を入れたりしてみたが、ほとんど効果はなかった。とりあえずバスが次のターミナルに着くまでは、我慢するしかない。
僕は祈るような気持ちで、バスが可能な限りはやく停車することを祈った。だがバスは一向に止まらない。乗客を拾うため、一時的に停車することはあるのだが、乗客が乗るとすぐに発進してしまう。
そんなとき、ふと昨日の夜に買ったパンが目に入った。長細い袋のなかに、ハンバーガー用の丸いパンがいくつも入っている。これを使えば、多少は寒さを凌げるだろうか……僕の28年の人生の中でも、パンを「着たい」と思ったのは初めてだ。僕は早速パンを首に巻いてみた。それほどまでに寒かったのだ。だがあまり効果は感じられなかった。僕はため息をついて、パンを座席に放り投げた。
長く辛い忍耐の時間を経て、バスはようやくターミナルに到着した。僕はすぐに、何事かといぶかしがる運転手にトランクを開けてもらい、カッパを装着することができた。その様子を見ていた運転手は、「フリーオ(寒かったのか)」とつぶやいた。
ターミナルで数人の乗客が乗り降りし、バスはまた出発した。僕は漫然と車窓から風景を眺めていた。延々と続くジャングルと、それを切り開いた牧草地。たまに思い出したように、町があらわれる。バスはまるでジャングルの海を渡って町という島々を渡る舟のようだ。
その後も町々に到着するごとに、バスはターミナルで暫くの間停まり、幾人かの乗客が入れ替わる。また道端でも客がバスを待っており、その都度バスは停車する。なるほど、これでは遅いはずだ。セカンドクラスとは、要は鈍行列車だった。そうこうするうちに太陽は昇り、昼頃になった。
町々のターミナルでは、乗客が乗り降りするとともに、売り子が幾人も乗り込んできて、いろいろなものを勧めてくる。新聞、タコス、フルーツ、飲み物、アイスクリーム――それぞれの売り子が調子のよいかけ声で、乗客らに商品を売っていく。そろそろお腹がすいてきた僕は、タコスとアイスクリームを買ってみた。アイスクリームは安っぽかったが、タコスは悪くない味だ。
長いことバスに揺られた末、ようやくキリグアの村へ辿り着いた頃には午後3時になっていた。本当なら今日、早めにキリグアの遺跡を見てしまって、チキムラ(ホンジュラス国境の町)あたりで宿を取る予定だったのだが、予想以上に時間がかかってしまったため、僕はキリグアの村でホテルを探すことにした。
どこか良いところはないかと歩いていると、おばあさんが話しかけてきた。聞けば、この街には日本人がやっているホテルがあるという。ちょうどそこに、バンコクのトゥクトゥクのような三輪タクシーがやってきたので、連れて行ってもらうことにした。5ケツァール。タクシーはあまり使いたくなかったが、重い荷物を背負ってあちこち歩き回るよりはいい。
「ここだ」
ポサダ・デ・キリグア(キリグアの宿)と書かれた門の前で、僕は下ろされた。庭に入っていくと、女性が出てくる。
「日本の方ですか?」
「ええ、日本人です」
懐かしい日本語だ。泊まりたい旨を話すと、部屋は空いているという。朝食付きで130ケツァールと、貧乏バックパッカーには少し勇気の要る値段だったが、今さら他の宿を探したくはないし、ガイドブックによればこのあたりは安宿でも結構するという。何より周辺の情報を聞きたかったため、この宿に泊まることにした。どうやら今日の宿泊客は僕一人のようだ。
女性は桑田真幸さんといった。コーヒーを戴きながら色々と話を伺ってみたが、なかなか面白い女性だ。もともと日本の会社で働いていたのだが、通訳としてグァテマラに来たとき、このキリグアの村が気に入ってしまって、3年前に一人でホテルを開いたのだという。道理で建物が新しいはずだ。方々飛び回りたい僕には真似できないが、魅力的な人生だ。
高いだけあって(失礼!)、部屋の質はかなり高かった。センスの良い内装と綺麗なシャワールーム、ふかふかのベッド、新しく清潔なシーツとタオル。部屋を開ければ、綺麗な庭も見える。確かにこれだけのものがあれば、130ケツァールの値段も高くはないだろう。僕が今まで泊まった中では、一番良い宿ではないだろうか。
夕方、僕は夕食ついでにキリグアの町を散策してみた。とてものどかで、とても小さいな良い町だ。人は僕を見かけると、にこやかに挨拶してくれる。僕は都会より、こういう田舎の村の方が好きだ。村の食堂で食べた夕食も旨かった。僕は久しぶりに幸せな気分に浸りながら、寝心地の良いベッドに横になった。
2009.01.02
アステカの遺光 その1
今日の目的地ははじめから決めていた。メキシコ国立人類学博物館だ。元日は休みだったが、今日は開いていることも確認してある。ここには昨日訪れたテオティワカンやトルテカ文明、マヤ文明など、数々の遺跡から出土した、膨大な数の遺物が展示されている。中でも僕が一番見てみたかったのは、アステカ文明の遺物だ。
遙か昔に滅んでしまったテオティワカンやトルテカなどと違い、アステカ文明はスペイン人がメキシコにやってきたときにはまだ「生きて」いた。いや、最盛期を迎えていたと言っていい。そのため、残された遺物もこのアステカ文明のものが最も充実している。
中南米の文明の中でも、僕はこのアステカ文明が一番好きだ。スペイン人の残した記録によって、詳細にその文明の内容が分かっているということもさることながら、なによりその滅亡の仕方がとてもドラマチックだ。
考えても見て欲しい。それまで大西洋に隔てられて互いの存在すら知らなかった2つの文明が、あるとき突然出会ったのだ。しかも一方は銃や鉄の武器・鎧で武装し、もう一方は高度な建築技術を持ちながらも、武器と言えば棍棒や石槍、弓がせいぜいだった。初めてスペイン人を見たアステカの人々は度肝を抜かれたことだろう。現代でたとえて言うなら、ある日突然宇宙人がUFOに乗って攻めてきたようなものだ。
スペイン人がやってくるまで、アステカはメソアメリカ世界ではまさにやりたい放題だった。周辺の弱小国に攻め込んでは多くの兵を殺さずに捕らえ、生贄にする。生きたまま腹を割いて心臓を引きずり出し、神に捧げるのだ。もちろん、残った遺体は後でスタッフ神官や民衆がおいしくいただく。まさに諸星大二郎の世界だ。
ある学者の推計によれば、大規模な儀式では一度に1万数千人の人間が生贄に捧げられたという。これだけの生贄を確保するため、アステカはあえて周辺国を征服せず、生殺しにしていた。そのため、アステカは周辺国から心底憎まれていた。征服者エルナン・コルテスがわずか500人程度の手勢で、30万の人口を誇るアステカの首都・テノチティトランを征服できたのも、これら周辺国の援軍と、属国の離反によるものが大きい(他にも理由はたくさんあるのだが)。
しかし、それでもアステカの征服は簡単には済まなかった。アステカ皇帝モクテスマを人質にしてテノチティトランを占領したスペイン人たちだったが、その後アステカ人の暴動が起こり、一度はほうほうの体で都を逃げ出している。その暴動の中で、モクテスマは命を落としてしまった。
だがコルテスは周辺国からの援軍も糾合して体制を立て直し、再びテノチティトランに攻め込んだ。迎え撃つはモクテスマの跡を継いだ新皇帝・クワウテモク。そして2カ月半にもおよぶ壮絶な戦いの末、ついにクワウテモクは捕らえられ、アステカは敗れ去ったのだ。
こう書くと、まるで悪の大帝国が正義の使者に打ち倒されたように見えてしまうが、そんなことはない。中米(後に南米)を征服したスペイン人は、アステカに負けず劣らず――というより、さらに非道なことをやっている。
前置きが長くなってしまったが、そんなアステカの遺物を見るために、僕は人類学博物館へと向かった。
遙か昔に滅んでしまったテオティワカンやトルテカなどと違い、アステカ文明はスペイン人がメキシコにやってきたときにはまだ「生きて」いた。いや、最盛期を迎えていたと言っていい。そのため、残された遺物もこのアステカ文明のものが最も充実している。
中南米の文明の中でも、僕はこのアステカ文明が一番好きだ。スペイン人の残した記録によって、詳細にその文明の内容が分かっているということもさることながら、なによりその滅亡の仕方がとてもドラマチックだ。
考えても見て欲しい。それまで大西洋に隔てられて互いの存在すら知らなかった2つの文明が、あるとき突然出会ったのだ。しかも一方は銃や鉄の武器・鎧で武装し、もう一方は高度な建築技術を持ちながらも、武器と言えば棍棒や石槍、弓がせいぜいだった。初めてスペイン人を見たアステカの人々は度肝を抜かれたことだろう。現代でたとえて言うなら、ある日突然宇宙人がUFOに乗って攻めてきたようなものだ。
スペイン人がやってくるまで、アステカはメソアメリカ世界ではまさにやりたい放題だった。周辺の弱小国に攻め込んでは多くの兵を殺さずに捕らえ、生贄にする。生きたまま腹を割いて心臓を引きずり出し、神に捧げるのだ。もちろん、残った遺体は後で
ある学者の推計によれば、大規模な儀式では一度に1万数千人の人間が生贄に捧げられたという。これだけの生贄を確保するため、アステカはあえて周辺国を征服せず、生殺しにしていた。そのため、アステカは周辺国から心底憎まれていた。征服者エルナン・コルテスがわずか500人程度の手勢で、30万の人口を誇るアステカの首都・テノチティトランを征服できたのも、これら周辺国の援軍と、属国の離反によるものが大きい(他にも理由はたくさんあるのだが)。
しかし、それでもアステカの征服は簡単には済まなかった。アステカ皇帝モクテスマを人質にしてテノチティトランを占領したスペイン人たちだったが、その後アステカ人の暴動が起こり、一度はほうほうの体で都を逃げ出している。その暴動の中で、モクテスマは命を落としてしまった。
だがコルテスは周辺国からの援軍も糾合して体制を立て直し、再びテノチティトランに攻め込んだ。迎え撃つはモクテスマの跡を継いだ新皇帝・クワウテモク。そして2カ月半にもおよぶ壮絶な戦いの末、ついにクワウテモクは捕らえられ、アステカは敗れ去ったのだ。
こう書くと、まるで悪の大帝国が正義の使者に打ち倒されたように見えてしまうが、そんなことはない。中米(後に南米)を征服したスペイン人は、アステカに負けず劣らず――というより、さらに非道なことをやっている。
前置きが長くなってしまったが、そんなアステカの遺物を見るために、僕は人類学博物館へと向かった。
2009.01.01
太陽と月の都
昨日早めに寝たので、6時頃には目が覚めてしまった。サンフェルナンド館は毎朝8時に朝食が出る。それまでの間、ガイドブックを見ながら今日一日、どうするかを考えていた。今日は1月1日。おそらくほとんどの見所は休みだろう。さて、どうしたものか――そう考えていると、やがて朝食の用意がはじまり、ほかの宿泊客もダイニングに集まってきた。
その中のひとりに、市川さんという青年がいた。聞けば彼は今日、テオティワカンの遺跡に行くという。元日でもこの遺跡には入ることができるというのだ。これだ。早速彼に同行を申し出ると、快く承諾してくれた。
テオティワカン――編集プロダクションを辞める前は、歴史関係、それも世界の古代史を扱う雑誌の記事を書いていた僕にとって、その名はとても魅力的な響きをもつものだった。
16世紀、コンキスタドール(スペイン人征服者)エルナン・コルテスによってメキシコが征服されるまで、メキシコ高地には3つの文明の興亡があった。はじめがテオティワカン、次がトルテカ、そして最後がコルテスに滅ぼされたアステカだ。テオティワカン遺跡は、その最初の文明の中心地だった。紀元3世紀から7世紀の最盛期には、メソアメリカ(中米)世界に広く影響を及ぼす超大国の都として、20万の人口を擁したという。
当時の南北アメリカ大陸の中で最も多くの人と文物が集まる交易の集積地であり、最も強大な政権の中枢であり、また最も神聖な宗教の中心地――それがテオティワカンだ。マヤ文明最大の都市であるティカルも、後のトルテカ文明の都と目されるトゥーラも、テオティワカンに比べればその規模は遠く及ばない。
この巨大都市に匹敵、もしくは凌駕する事ができたのはただ二つ。アステカの王都テノチティトランと、南米・インカの帝都クスコだけだ。そのアステカの皇帝でさえ、テオティワカンには巡礼を欠かさなかったという。
テオティワカンがどのような遺跡だったかは、後のほど中南米遺跡事典の項目に書く予定なのでそちらを見てもらいたいが、とにかく思った以上のスケールで、その壮大さには圧倒された。世界最大の規模を誇る「太陽のピラミッド」に登ったときは、どこまでも続く階段に死ぬかと思ったが(なにしろ、日本ではずっとノートパソコンより重いものを持たない生活が続いていたのだ)、頂上から見える眺めはやはり最高だった。都市全体を見渡すことができて、往時の街並みを思い起こさせる。
僕は夢中で歩き回り、建造物を見てはシャッターを切りまくった。途中、売店でサンドイッチを買って昼飯にしたところで市川さんは宿に帰ったが、僕はまだまだ見回りたらず、ようやく宿に着いた頃には夕方6時を回っていた。歩きすぎて全身クタクタだったが、僕は満足感に浸っていた。
その中のひとりに、市川さんという青年がいた。聞けば彼は今日、テオティワカンの遺跡に行くという。元日でもこの遺跡には入ることができるというのだ。これだ。早速彼に同行を申し出ると、快く承諾してくれた。
テオティワカン――編集プロダクションを辞める前は、歴史関係、それも世界の古代史を扱う雑誌の記事を書いていた僕にとって、その名はとても魅力的な響きをもつものだった。
16世紀、コンキスタドール(スペイン人征服者)エルナン・コルテスによってメキシコが征服されるまで、メキシコ高地には3つの文明の興亡があった。はじめがテオティワカン、次がトルテカ、そして最後がコルテスに滅ぼされたアステカだ。テオティワカン遺跡は、その最初の文明の中心地だった。紀元3世紀から7世紀の最盛期には、メソアメリカ(中米)世界に広く影響を及ぼす超大国の都として、20万の人口を擁したという。
当時の南北アメリカ大陸の中で最も多くの人と文物が集まる交易の集積地であり、最も強大な政権の中枢であり、また最も神聖な宗教の中心地――それがテオティワカンだ。マヤ文明最大の都市であるティカルも、後のトルテカ文明の都と目されるトゥーラも、テオティワカンに比べればその規模は遠く及ばない。
この巨大都市に匹敵、もしくは凌駕する事ができたのはただ二つ。アステカの王都テノチティトランと、南米・インカの帝都クスコだけだ。そのアステカの皇帝でさえ、テオティワカンには巡礼を欠かさなかったという。
テオティワカンがどのような遺跡だったかは、後のほど中南米遺跡事典の項目に書く予定なのでそちらを見てもらいたいが、とにかく思った以上のスケールで、その壮大さには圧倒された。世界最大の規模を誇る「太陽のピラミッド」に登ったときは、どこまでも続く階段に死ぬかと思ったが(なにしろ、日本ではずっとノートパソコンより重いものを持たない生活が続いていたのだ)、頂上から見える眺めはやはり最高だった。都市全体を見渡すことができて、往時の街並みを思い起こさせる。
僕は夢中で歩き回り、建造物を見てはシャッターを切りまくった。途中、売店でサンドイッチを買って昼飯にしたところで市川さんは宿に帰ったが、僕はまだまだ見回りたらず、ようやく宿に着いた頃には夕方6時を回っていた。歩きすぎて全身クタクタだったが、僕は満足感に浸っていた。
2008.12.31
2度目の大晦日 その2
空港から市街へ行くには、2つの方法がある。タクシーとメトロ(地下鉄)だ。市街まで、タクシーは100〜200ペソ(1ペソ=6.6円)、メトロはどこまで乗っても2ペソ。メトロはあまり治安が良くないという話だったが、極力出費を抑えたい僕に選択の余地はない。僕はメトロに乗ることにした。

だが、ここからが大変だった。メトロの入口が見つからず、人に聞いてようやく辿り着いたら、今度はどのホームから乗ればいいか分からない。案内板を見てもスペイン語ばかりで、さっぱり意味が理解できない。時間はすでに午後8時。仕方なく、僕は目の前に到着した電車に乗ってみることにした。
困った顔をして電車に揺られていると、ひとりのメキシコ女性が英語で話しかけてきた。
「どこに行くの?」
「Revolucion(レボルシオン)駅に行きたいんです」
僕は泊まろうと考えていた日本人宿「ペンション・アミーゴ」の最寄り駅を答える。すると女性は暫く考えたあとで、こう答えた。
「レボルシオン駅に行くには、この線ではだめ。次の駅で乗り換えなさい」。
駅に到着すると、彼女は「ついてきて」と言い、電車を降りた。雰囲気から察するに、僕のためにわざわざ電車を降りてくれたようだ。なんて優しい人だろう。メキシコ人はみんなこうなのか? 僕は感心しながら、彼女の後をついて行った。
「あっちに行くと、乗り換えられるわ」
しばらくして立ち止まった彼女はこう言うと、もと来た道へスタスタと帰って行った。
「ありがとう!」
僕が叫ぶと、彼女は振り返ってにっこりとほほえんだ。
彼女が指した方向へ進むと、ホームへの階段が見えてきた。この頃になると、スペイン語の洪水に戸惑っていた僕にも、だんだんメトロの勝手が分かってきた。駅名は壁に書いてあるし、何番線か、どの方面行きかを記した案内板も天井からぶら下がっている。僕はガイドブックに載っていた路線図を見ながら、レボルシオン駅に到着した。

駅の出口には、たくさんの露店が軒を並べていた。その中に、いかにもメキシコ人といった感じのおじさんがやっているタコス屋があった。思えばロサンゼルス空港を出て以降、何も食べていない。その上重いバックパックを背負って歩きづめだったのと、行く道がわからない気苦労とで、僕はもうクタクタだった。さっそく身振り手振りでタコスを注文する。少し塩が効きすぎだが、悪くない味だ。少し元気が出てきた僕は、宿に向かって歩き出した。
ペンション・アミーゴの前に辿り着くと、日本語で「おしてください」と書かれたブザーを押した。出てきた管理人と思しき日本人に泊まりたい旨を伝えると、今日はもうドミトリー(相部屋)は一杯だと言う。個室は空いているが、値段が倍くらい違う。仕方なく、僕はもうひとつの日本人宿「サンフェルナンド館」に向かうことにした。
しばらくの間メキシコの街をさまよった後、ようやくサンフェルナンド館を見つけることができた。幸いなことに、ベッドはまだ空いているという。疲労が限界に来ていた僕はシャワーを浴びると、早々に床についた。2度目の大晦日は、何とも長い一日だった。

だが、ここからが大変だった。メトロの入口が見つからず、人に聞いてようやく辿り着いたら、今度はどのホームから乗ればいいか分からない。案内板を見てもスペイン語ばかりで、さっぱり意味が理解できない。時間はすでに午後8時。仕方なく、僕は目の前に到着した電車に乗ってみることにした。
困った顔をして電車に揺られていると、ひとりのメキシコ女性が英語で話しかけてきた。
「どこに行くの?」
「Revolucion(レボルシオン)駅に行きたいんです」
僕は泊まろうと考えていた日本人宿「ペンション・アミーゴ」の最寄り駅を答える。すると女性は暫く考えたあとで、こう答えた。
「レボルシオン駅に行くには、この線ではだめ。次の駅で乗り換えなさい」。
駅に到着すると、彼女は「ついてきて」と言い、電車を降りた。雰囲気から察するに、僕のためにわざわざ電車を降りてくれたようだ。なんて優しい人だろう。メキシコ人はみんなこうなのか? 僕は感心しながら、彼女の後をついて行った。
「あっちに行くと、乗り換えられるわ」
しばらくして立ち止まった彼女はこう言うと、もと来た道へスタスタと帰って行った。
「ありがとう!」
僕が叫ぶと、彼女は振り返ってにっこりとほほえんだ。
彼女が指した方向へ進むと、ホームへの階段が見えてきた。この頃になると、スペイン語の洪水に戸惑っていた僕にも、だんだんメトロの勝手が分かってきた。駅名は壁に書いてあるし、何番線か、どの方面行きかを記した案内板も天井からぶら下がっている。僕はガイドブックに載っていた路線図を見ながら、レボルシオン駅に到着した。

駅の出口には、たくさんの露店が軒を並べていた。その中に、いかにもメキシコ人といった感じのおじさんがやっているタコス屋があった。思えばロサンゼルス空港を出て以降、何も食べていない。その上重いバックパックを背負って歩きづめだったのと、行く道がわからない気苦労とで、僕はもうクタクタだった。さっそく身振り手振りでタコスを注文する。少し塩が効きすぎだが、悪くない味だ。少し元気が出てきた僕は、宿に向かって歩き出した。
ペンション・アミーゴの前に辿り着くと、日本語で「おしてください」と書かれたブザーを押した。出てきた管理人と思しき日本人に泊まりたい旨を伝えると、今日はもうドミトリー(相部屋)は一杯だと言う。個室は空いているが、値段が倍くらい違う。仕方なく、僕はもうひとつの日本人宿「サンフェルナンド館」に向かうことにした。
しばらくの間メキシコの街をさまよった後、ようやくサンフェルナンド館を見つけることができた。幸いなことに、ベッドはまだ空いているという。疲労が限界に来ていた僕はシャワーを浴びると、早々に床についた。2度目の大晦日は、何とも長い一日だった。




